草原にいる

雑文を書きます。

雨の日だと仮定して書く

 時折、においのする文章に出会うことがある。

 安部公房からは古いオフィスビルのにおい。黴に侵された空調、昭和に取り残されたタイル床、黄ばんだ壁、過去の栄光にすがり続ける加齢臭。深夜の都会の下水と煙草。

 谷崎潤一郎からは華やかに彩られた香水のにおい。極彩色の遊郭と、そこに住まう遊女の首筋。上品で質朴な、人里離れた古刹の縁側。幼児。異人の体臭と強烈な芳香剤。退廃と栄華は表裏一体である。

 萩原朔太郎には人がいない。ずっと待っているのか、あるいは今しがた誰かが去っていったのか。あるのはただ残り香ばかりである。夕暮れか朝焼けかも曖昧な橙色の光線と、風に揺れるカーテンが見える。くすんだ花瓶にうなだれた、すえた花の臭気。

 

 さっきまで降っていた雨もようやく止んだようだ。街を覆っていた雨のにおいももうすぐ干上がって、賑やかで雑多なにおいたちが、またそこかしこから夕靄のようにのろのろと這い出てくるだろう。