草原にいる

雑文を書きます。

銭湯

 本日も銭湯に行った。自宅を出て3分ほど自転車を走らせた先にある、至って普通の銭湯である。番頭の女将さんと二言三言立ち話をする。目の手術を受ける予定であったが、コロナのせいで延期にしたらしい。

 3日前にも銭湯に行った。同じく3分ほど、煙草をふかしながら自転車を漕いではるばると、汗と仕事の鬱積を洗い落としに行った。ぬるま湯3分、あつ湯2分、水風呂1分を繰り返す。

 その2日前にも銭湯に行った。趣向を変えて、5駅ほど離れた周辺では有名な湯屋に向かう。有名なことの理由の一つに、入浴剤が日替わりで豊富なのである。それもまた、常設のミルク風呂に加え、コーラ風呂にコーヒー風呂、レモン風呂やイチゴ風呂など何かと美味しそうで、食欲に忠実な私は思わず垂涎で暖簾をくぐってしまう。その日はちょうど混み合う時間にあたってしまい、10分ほど外で待った。いくら入浴剤に工夫を凝らしているとはいえ、銭湯に列ができるほど人気があるのかと驚いた。私は列に並ぶのが大嫌いで、ディズニーランドに行くときはアトラクションに乗りたい気持ちとそのために列に並ぶことへの嫌悪感で煩悶し、うかうか楽しむこともできないほどだが、その日は意気揚々と列に加わった。

 

 私は何を求めて銭湯に行くのか。

 自宅には割と新しめの風呂が備え付けられていて、足は伸ばせないが、そこそこ環境は良い。足を伸ばすためにわざわざ470円を払うくらいなら、文庫の古本の一つでも買った方が有用である。

 水風呂と温浴の交互浴ができるからだろうか。たしかに自宅の設備では交互浴は難しい。しかし、私が交互浴を始めたのは銭湯に行き慣れてきた割と最近の話である。まず何かが私を突き動かし銭湯に通わせしめ、交互浴の楽しみはその後付随的に発生した、いわばオマケである。

 では、単純に銭湯の雰囲気が好きだからだろうか。それは確かにあるだろう。湯上りに、休憩室でのんびりとコーヒー牛乳をひっかけるひと時は何にも代えがたい。しかし、それだけでは弱い。何か、それだけでは無い魅力が銭湯にはある気がしてならないのである。

 

 洗い場を見れば、様々な男が様々なことをしている。一生懸命に体をごしごしと洗う者、丁寧に髭を剃る者、椅子に座って茫然とする者、あるいは湯船に浸かって茫然とする者、皆自分のことに夢中である。多くの人が密になり、ソーシャルディスタンスなんてどこ吹く風というような空間で、しかも皆恥部をさらけ出し合っているという身体的には非常に近い状況にもかかわらず、皆全く目を合わさず、自分の体を洗い清める行為に集中し精神の上では全くの没交流である。こんな異常事態があるだろうか。

 自分の裸体を人前にさらしておきながら、まるで周りに人がいないかのように振る舞う銭湯民族の神経の太さに思わず驚嘆してしまう。しかし、自分もそんな人種になりつつあるのだ、というか、もうなってしまっている。

 社会生活ではたくさんの人がいる前でなかなかそう茫然とできるものではない。常に多少は人の目を気にして、髪型が崩れていないか、今口が開きっぱなしになっていなかったか、自分の精神の扉が緩まないように力を込めて生活をしている。

 ただし、銭湯は社会という場の中で唯一といっていいほど、精神を緩めて茫然とできる場所である。むしろ、茫然とすることが推奨されている。湯船で隣の奴が横柄にも気持ちよさそうにふーっと大きく息を吐こうものなら、何を俺の方がもっと茫然としてやるぞと目をつむってさも極楽という表情で肩まで湯につかる。そうして無言の茫然合戦が始まる。

 そのようにして茫然が板について来ると、まだ精神を緩めるのに慣れていない初心者はすぐに分かるようになる。彼らは、おどおどしながら少し恥ずかしそうに洗い場に入ってきて、椅子がどこにあるのか探したり、備え付けの石鹸が無いことに落胆したり、見ず知らずの裸が大量にある光景に改めて動揺の念を見せたり、そしてそれらを悟られまいと、さも悠々とシャワーを浴びつつどこの浴槽から入ろうかとあたりを見回したりするため、すぐに分かるのである。かつて自分がそうであったから。

 

 銭湯の魅力は茫然にあると言える。それも自宅という私的空間でするような、ただの茫然ではない。社会的茫然である。意識された茫然である。

 人は皆、自分をさらけ出せる場所を求める。ある人は気の合う仲間と過ごすために趣味のサークルに入り、またある人はネットで匿名の庇護のもと自分の本音をぶちまける。あるいは、家庭を持って私的空間でそれを完結させる。

 銭湯こそ、最高のさらけ出し空間である。一糸まとわぬ姿を晒し、最大限油断した精神、つまり茫然で存在できる希少な空間である。その空間は、空間として茫然を受け入れている。皆が皆、お互いの茫然を許し合い、お互いの茫然を邪魔せぬように没交流を貫く。銭湯は、茫然するための空間である。

 

 ここまで、社会的茫然なんてそれらしい言葉を使ってまで何やら書いてきたが、すべて適当である。何しろさっきまで銭湯に行っていたものだから、茫然が抜けきっていないのかもしれない。